私的な散文

私的な散文を徒然に綴っていきます

ベッドの上の将棋対局

空いたベッドに新しい入院患者が入ってきた。
将棋のM名人らしい。
そんな有名人なら、差額ベッドの特等室に入院すればよい物をと思ったが、差額ベッド含め今は8人の大部屋しか空いてないらしい。
奥さんと秘書を連れて入院看護師長も伴い、ベッド周りの整理を始める。
看護師長から入院の説明があるが、その際にもM名人を特別扱いしている様子が見て取れる。
将棋版に駒をパチッパチッと指し、前対局を反芻している。
秘書が言う「72手で王手です」
主治医が来て、治療計画の説明を始める。
「・・・病名、悪性リンパ腫・・・」と言ってアッと口を押さえる。
「気を付けて下さい。癌と分かればマスコミは大騒ぎになります。体調不良としか公表してないのに。」
秘書が苦情を言う。
主治医は以降小声で説明を始める。
なにやら今晩対局予定の相手がいるらしい。
M名人への挑戦者だ。名前は分からない。
秘書だけが残り、夕食の介添えをしている。
夕食が済むとしばらく休憩し、M名人は黙想している。
どうやら集中力に磨きをかけているようだ。
そしてやおら着物に着替え始めた。
対局に向かうのかと思いきやベッドの上に正座した。
ベッドの上に将棋版が据えられ、将棋の駒を版の上に並べる音。
小型のテレビカメラを持ったカメラマンが入ってくる。
イヤホンマイクを付け、ノートを持ったADらしき若者も入ってくる。
粛々とした時間が流れ、対局者が現れる。
スーツ姿で決めている。
看護師以外立ち入り禁止の札が貼られる。
アナウンサーはTV局にいるらしい。
殆ど無音の内に対局が始まる。
パチッ、パチッ、と駒を指す音のみ響く。
また粛々とした時間が経過し、とうとうM名人が王手をかける。
少し離れたナースステーションで歓声が上がる。
NHKTV放映されているらしい。
M名人防衛戦勝利!
対局相手の額には汗が滲んでいる。
「参りました。」「いやなかなか、これからも頑張って下さい。」
無事、ベッドの上の対局は終わった。
TVでは周囲の情景を切り取った映像が映されているのだろう。
その後病室に来る看護師は「先生素晴らしかったです」と声を掛けていく。
入院患者の一人が網の目を潜ってサインを貰いに来た。
「私も将棋が大好きで、先生の対局は全部みています。」
M名人は鼻高々である。

一夜明けて、ベッドの上で朝食を取っているM名人をみると、極普通の中高年のおじさんだ。
昨日の出来事は本当に起きてたのか。
入り口の名札を見ると間違い無くM名人の様なのだが・・・