私的な散文

私的な散文を徒然に綴っていきます

煮えきらない患者

もう面会の終了時間、午後7時である。
斜め前のベッドのTに面会中の家族、妻と娘2人が帰ろうとしている。
5時位から来ているだろうか。
明日退院らしく、その段取りの打ち合わせをしていて長引いているようだ。
Tは抗ガン剤の副作用で頭髪が抜け、いつも毛糸の帽子を被っている。
長女(高校3年らしい)がその頭を見て「お父さん、あんた1ヶ月でこんな頭になって!」・・・とうとう泣き出してしまった。
Tは腰が痛くて、曲げられないらしい。
鎮痛剤が強いらしく、車の運転をするなら出せないと看護師に念を押されていた。
その関係でどう家に帰るか話し合っているようだ。
あまり、注意を向けて無く、途中の経過は分からないが、7時近くなり、妻がさあ帰ろうかと言い出した。
「ちょっと待て」とT.
その時ベッドの上で携帯ゲームをしているようだ。娘2人が見守っている。
妻がまた促す。
長女が「お父さんが待ってって言ってるじゃない」と父親を庇う。
その時、「ちょっと待てと言ってるだろうが!この馬鹿女が!」大きな怒声が皆を驚かした。
その時から、口が動いてないのに、声が聞こえ出した。
「この馬鹿女、何にも考えてないのか。どうすりゃいいんだ?入院費はいくらだろう?はらえるかな?高額だったらどうしよう?・・・どうしよう・・・どうしよう・・・困ったぞ・・・」
ゲームをしながら思っているらしい。
それがはっきり聞こえる。
「なによ、こんなに心配しているのに。もう早く死んじゃえばいいんだ。そうしたら全てがかたずくのに・・・」
妻の頭の中の声も聞こえる。
娘たちの思いは分からない。
どうも心に葛藤のある人の声が聞こえるようだ。
そして、心中の混沌とした想念は聞こえない。
心中にはっきりと意識した無音の声だけが聞こえるのだ。例えば今私がここに記している単語の連なりが頭の中で響いているように。
家族が帰っていった。
Tはまだ携帯ゲームに夢中になっている。
しかし、聞こえてくるのはため息ばかり。
時々「どうしよう」という声が入る。

その晩は何もなく過ぎた。
翌日、午後1時頃、Tの長女が駆け込んできた。
「ごめーん!間違ってたぁ?」
「書類が違うじゃないか!おまえ馬鹿か」
高額入院費の社会保険からの払い戻しの書類の事らしい。
「そんなに怒らんでもいいじゃん!そんなに言わないでよぉ。私だって一生懸命なのよー」声が震える。
一時やりとりがあって娘が帰っていった。
私はウトウトしていて、一緒に帰ったのかな・・・と思ったら、帰り支度をしてベッドに寝ている。
すると起きあがって、今まで会話を交わしたことのない、隣同士で話をしている同室の2人の患者に話しかけている。
話していることは些細な事柄だが、結構親しそうに長い間話している。
そして「早く退院できるように」と別れの挨拶をしてまた沈黙が続く。
私はこのTが、大分前私と友人を裏切った卑劣なHに背格好、身振り、話し方がそっくりで好きになれなかった。
人間ある程度生きていると、憎む人が増えて嫌なもんだ。
好きな人はそれ程増えないが・・・
私は背を向けて目を瞑っていた。
もう帰ったかと思うとまたベッドに寝ている。
「どうするどうする・・・こんなに高いなんて・・・72万なんて払える訳無いだろー」
ブツブツ言う無音の声が聞こえる。
いったいどれ位入院しているのだろう?
立ち上がり部屋の中をうろうろしだした。
「どうするどうする・・・困った・・・マジに困った・・・」ウロウロウロウロ・・・
うるさい奴だな・・・と思ったが・・・考えると人事ではない。
Tの心情を思うとついつい感情移入してしまう。
早く去ってくれ・・・と思う。
暫くして、隣のベッドの患者に「じゃあ行きます」と声をかけ去っていった。
同情するが、あのHみたいにウジウジした奴だった。
しかし・・・後味が良くない。