私的な散文

私的な散文を徒然に綴っていきます

病院幻想交響曲 死を認識できるか

今晩はとても疲れた。昼間胃カメラを十二指腸まで入れられ、相当疲労してしまったのだ。
最近眠れなかったが、今晩は眠りたい。
入眠する時はそれが分かる。
突然脈絡のない想念が浮かび出すのだ。
そのうちに眠っている。
しかし、自分が入眠したことを認識できない。
次の意識は目が覚めたときである。
ああ眠れたんだな・・・という意識である。
その時また子供の頃から考えていた形而上学的問題が蘇ってきた。
ああこれでまた眠れない。

人は死ぬとどうなるのだ? 魂は残るという人、死体を抜け、三途の川を渡り冥土へ行くという人、閻魔様の前へ連れ出され生前の行いを評じられるという人・・・はたまた死んでしまえば、全て無になるという無神論者。
無神論者の説によれば、人は自分が死んだ、生命活動を終えたことを認識出来ない訳だ。
ということは、生き続けている事、さらに世界でトップクラスの大富豪になっている事、或いはホームレスに墜ちている事・・・と等価なのではないか。
つまり無限の可能性を持って生きている事と等価なのではなかろうか。
この想念が私を虜にする。
この事象を私は簡単な数式になぞらえる。
つまり1÷0=∞・・・存在1を、認識する÷、意識が0、は死んだ時点からそれ以前の生に連続した無限の生き方・・・
余りに見事な数式(と自分では思っている)なので、これが頭から離れなかった子供の頃。
しかし、それは破られた。
中学3年の頃、私は体調を崩し伏せっている時、幽体離脱してしまったのだ。
私はガラス窓の外に出て、外から自分の寝ている姿を見てしまった。
他の幽体も何度か見た。
従って私は死後も魂は残る派なのだ。
魂は残ってもそれからが分からない。
よく臨死体験の話があり、学術的にも取り挙げられることもあるようだ。

しかし私の体験も随分昔のことであり、今の心情としては魂として残りたくはない。

ああまたこれで夜明けまで悶々としなければならない・・・