私的な散文

私的な散文を徒然に綴っていきます

おいっ!そこの女医!

オイ!そこの女医!
年上の看護師をつかまえ、タメ口とはいい根性してるな。
看護師より医師の方が偉いってのか?
ざけんじゃねえぞ!!!
人間としてどうなんだ、その態度!
そりゃ医師になる方が難しいだろう、親御さんは金も掛かったろう。
看護師さんは医師になれないから看護師で我慢した・・・とでも思っているのか?
ざーけんじゃーねーつんだ!

看護師さんは強い意志をもって、過酷な労働の看護師を選択してるんだ。
そこんとこ間違っちゃあいけねえぜ!
(医師用の)白衣を着てりゃ偉いっつーもんじゃねえんだぜ。
分かってんのか?
そこのケツの青い姉ちゃん!
ヒヨッコの癖しやがって。
年上に対しては誰であろうと敬語だろ?
見ていて胸くそ悪いぜ!
年上の看護師さんに敬語を使わせやがって。

オイそこのヒヨッコの女医さん。
あんたも大きな志をもって、猛勉強して医師になったんだろうが、看護師さんも同じかそれ以上の志をもってこの道を選んだんだぞ。
あんな大変な仕事を、普通のミーちゃんハーちゃんがやれると思ってんのか?
看護師さんの仕事って3Kそのものじゃないか。
あんたらに身動きの不自由な患者さんの下の世話が出来るか?
入浴介助が出来るか?
摘便が出来るか?
そりゃやろうと思えば出来るだろうが、それが彼女、彼たちの日常の仕事なんだぞ。
最近勤務医が薄給で目一杯働かされて、バーンナウトしていまっている・・・とよく言われる。
私もそんな不機嫌で虚ろな医師に時々でくわすが、殆ど患者のことは考えてない。
ニコリともしない。
何でそんなに不機嫌なのって言いたくなる。
看護師さんを見習えってんだ。
病気で滅入りそうになりがち、不安になりがちな患者さんを明るく過ごしてもらいたいと健気なあの働きぷり。
彼女、彼(少ないが)たちだって、気の重い日もあるだろうに・・・
それこそプロってものよ!
少しは爪の垢を煎じて飲んだ方がいいぜ。

病院を英語で何というのか知ってるかい?
中学生でも知ってるが、ホスピタルってんだなぁ、これが。
じゃあ、ホスピタリティってのはどういうことか知ってるかい?
インテリのアンタたちゃご存じだよな。
そうよ“心の込もったおもてなし”ってこったな、これが。
おうよ、病院っつーのは、患者さんを心を込めておもてなしする所なんだよ。
エッそんなこたあ分かってるって?
ならなんでおまえ等医師はそうしねえんだよ?
間尺に合わねんじゃねえか?
病にかかって、病院に行き、ますます精神的に落ち込んでちゃ、何のために診てもらうか分かったもんじゃねえや。
そこへいくと入院患者さんに対する看護師さんの態度・・・ほんと白衣の天使だね。

そもそも看護婦さんを看護師さんに名称変更したのは誰だ?
男女の雇用機会均等というのが名目らしいが、ちょっとオカシいんじゃないか?
看護師さんは女性の仕事だ。
女性の看護師さん自身がそう思っている。
実際男性の看護師は増えてないだろう。男性の看護師なんて中途半端な存在はないだろう。
男性看護師が女性入院患者の下の世話なんて出来るか?
介護師ならまだ分かるが・・・
婦が付くことで何か女性差別的なニュアンスを含むとでも思ってんのか?
では、家庭の主婦はどうなんだ?
主師とでも呼べってのか。
男と女はどうあがいても、同等にはならないんだ。
優劣の問題ではない。
身体構造、精神構造全て違うのに、平等であっても、同等ではないのだ。
それぞれにふさわしい役割、仕事というものがあるのが当然だ。
それを男女平等、同権をはき違えている奴がいる。
そこんとこ良く考えないと、とんでもない方向に行っちまうぞ!
いやはや政治家というものは脳足りんが多いぜ。
まあ男女の間に垣根を作っちゃいけないけどな。
お互いの職場に入り込める余地は有るべきだと思うが、全く同等と言うのはまずいんじゃねえか?

病院幻想交響曲 幻想交響曲がみえる

ある夜中、いつもの気の訓練が終わり、奴の急襲もなく、般若心経を唱え、瞑想していると・・・
ファンコイルユニットの低音の響きが可視化してきた。
視野の下の方でグレーの帯となり、右から左に流れている。
流麗なメロディーが流れて、その帯に何らかの記号で刻まれて行く。
一つのメロディーに他のメロディーが折り重なり、また異なるメロディーが重なる。
次第に重層的になり、重量感のある華麗な音楽が、その帯に刻まれて行く。
逆に、帯に刻まれた複雑な7色に輝く記号から、音楽が生じているようにも見える。
その帯自体が美しく揺れ動くオーロラの様で見ていて感動する。
絶妙なハーモニーも重厚だが明るく、この世には無い様な響きである。
暫くその視覚聴覚に訴えるような心地よさに酔いしれていると、帯の上にスクリーンが現れた。
そのスクリーンでは地球上のあるいは宇宙のこの上もなく美しい映像が繰り広げられる。
そうするとその周囲に複数の小さなスクリーンが現れ、世の中の悲惨なこと等のマイナスイメージの映像が映し出される。
そうすると下の帯のハーモニーに濁りが生じる。
私は何故かその濁りを取る術を知っている。
小さなスクリーンにフォーカスし瞼でクリックするのだ。
瞼クリックでどんどん負の映像を消していく。
一時するとまた泡のように小さなスクリーンが現れる。
すぐさま瞼クリックで消していく。
私は松田聖子にボーカルで入って欲しいと願う。
すると松田聖子の張りのある綺麗な歌声がハーモニーと渾然一体となって、ますますこの世とは思えない響きを奏でる。
私は思った。
これが本当の交響曲だ。
しかも見える。
交響曲が見える。
例えば、ブラームス交響曲第4番第1楽章を聞いていると、木枯らしが吹きすさぶ真冬の荒野、どんより垂れ込めた雲の向こうにボンヤリ光る太陽が見える・・・といった情景が頭に浮かぶが、そのような連想とは異なり、実にビジュアルな交響曲だ。
まさに幻想交響曲
私はその心地よさに身を投じながら、打算する。
こんなフィルムクリップ的な映画を製作したら、間違いなくアカデミー賞ものだぞ。
CGを駆使して、松田聖子に出演依頼して、監督賞、音楽賞、技術賞と総なめだ。
私は一躍有名人、アカデミー賞受賞式の挨拶を考えておかねば・・・記者会見の時の衣装は???
メロディーは頭に入った松田聖子ちゃんのパートはスティービーワンダーに依頼しよう。
あと大切なのはCGや特撮の特殊効果だ。
音響もプロに依頼しないと・・・

そうこう考える内に眠りに陥ってしまった。

 

 

 

病院幻想交響曲 黄昏の悲哀と至福その2

このような経験は若い人には無理であろう。
成人し、仕事に就き、その仕事を一生懸命勉強し覚える。
家族を構え、子供もできる。
充実した幸せな時代。
壮年期、益々仕事に磨きが掛かる。
そのうち若い人を指導する立場になる。

しかし、体力は次第に弱っていく。
いろんな疾病が襲ってくる。
これだけ平均寿命が長くなると、誰でも一度は入院を経験するのではないだろうか。
死を身近に感じてくる。
手術時の麻酔による意識不明は小さな死である。

また私の命題が蘇る。
・・・そのまま麻酔から目覚めないとしたら・・・本人にとってその意味は・・・
これはまた考えよう。

手術が終わった直後はある意味赤子に戻る。
看護師はお母さんである。
大人の意識があるから、下の世話他看護して貰うことに悲哀を感じる。
しかしそれからまた再生が始まる。
赤子が成長し、ハイハイする、歩き出す時、赤子の表情には満面の笑みが浮かぶ。
術後の患者がリハビリして歩けるようになる、食事ができるようになる、それは人生の黄昏で出会う至福である。

Yさんのオーラが最も輝いたのは、一週間後に控えた孫の結婚式に出席出来るかどうかを主治医に尋ね、「大丈夫です。」という返事を貰った時だった。
Yさんから一際金色に輝くオーラが放たれた。

黄昏で出会う悲哀と至福・・・若者には分からない。

 

 

 

病院幻想交響曲 黄昏の悲哀と至福その1

手術を控えて、外科病棟に移された。
手術前の患者は比較的元気な人、疾病で弱っている人、様々である。
術後の患者は一様に寝たっきり、回復の早い人は翌日には自力でトイレに行ける迄回復する。
呼吸器循環器外科主体の病棟なので、若い人は居ない。
年老いた人ほど回復が遅くなる。

私の隣のYさんは曾孫が5人いるらしい。
80代後半であろう。
教養のある紳士のような話っぷり。
前立腺癌で10日程前手術をしたらしい。
緊急手術で直前迄血液をサラサラにする薬を飲んでいたらしく、術後出血が止まらず、陰嚢に血液が溜まっているらしい。
トイレは自力では難しく、紙おむつを使っている。
その始末を若い看護師にして貰い、「もう、こんな事までして貰ってすいませーん。」
恥入るような声。

「○○ ○○」「○○ ○○」と自分の名をゆっくり唱え、「あぁー」と溜息をつく。
若い頃は矍鑠とした人物であったろうYさんにとっては相当の恥辱に思えるのかも知れない。
そんな時は、Yさんから濁ったオーラが出るので良く分かる。
そして、お尻や陰部を洗って貰う時も。

看護婦を看護師に呼称変更したのはいつ頃からだったろうか?
男女の雇用機会均等と言うことであろうが、私は看護師は女性の仕事と思う。
看護婦という言葉が職業に対する一部侮蔑的な(医師のような知識技術のない、その下働きをする者というような)意味合いを含んでいると感じるのだろうか。
どうもその様なところもあるようだ。
出産という機能を与えられた女性は男性よりももっと深い部分で生命と係わり、それに対する愛、慈悲といった知性的感情が豊かなはずである。

相手が若い男性の看護師であれば、Yさんは自意識少なく受け入れただろうか。

誇り高く知性豊かなYさんのオーラは歓びとともに現れる。
「体温が37度代になりましたよ。」と告げられた時、「あー良かった!」
食事を摂れるようになった時、「あー美味しい!」
その様な時、紺色と金のオーラが出て、特に金色が強く輝く。
Yさんから、濁ったオーラが最も発せられたのは、トイレに自力で行って、粗相をし、トイレを掃除して貰った事、裸になって、体を拭かれた事を家族に告げた時だった。

病院幻想交響曲 死を認識できるか

今晩はとても疲れた。昼間胃カメラを十二指腸まで入れられ、相当疲労してしまったのだ。
最近眠れなかったが、今晩は眠りたい。
入眠する時はそれが分かる。
突然脈絡のない想念が浮かび出すのだ。
そのうちに眠っている。
しかし、自分が入眠したことを認識できない。
次の意識は目が覚めたときである。
ああ眠れたんだな・・・という意識である。
その時また子供の頃から考えていた形而上学的問題が蘇ってきた。
ああこれでまた眠れない。

人は死ぬとどうなるのだ? 魂は残るという人、死体を抜け、三途の川を渡り冥土へ行くという人、閻魔様の前へ連れ出され生前の行いを評じられるという人・・・はたまた死んでしまえば、全て無になるという無神論者。
無神論者の説によれば、人は自分が死んだ、生命活動を終えたことを認識出来ない訳だ。
ということは、生き続けている事、さらに世界でトップクラスの大富豪になっている事、或いはホームレスに墜ちている事・・・と等価なのではないか。
つまり無限の可能性を持って生きている事と等価なのではなかろうか。
この想念が私を虜にする。
この事象を私は簡単な数式になぞらえる。
つまり1÷0=∞・・・存在1を、認識する÷、意識が0、は死んだ時点からそれ以前の生に連続した無限の生き方・・・
余りに見事な数式(と自分では思っている)なので、これが頭から離れなかった子供の頃。
しかし、それは破られた。
中学3年の頃、私は体調を崩し伏せっている時、幽体離脱してしまったのだ。
私はガラス窓の外に出て、外から自分の寝ている姿を見てしまった。
他の幽体も何度か見た。
従って私は死後も魂は残る派なのだ。
魂は残ってもそれからが分からない。
よく臨死体験の話があり、学術的にも取り挙げられることもあるようだ。

しかし私の体験も随分昔のことであり、今の心情としては魂として残りたくはない。

ああまたこれで夜明けまで悶々としなければならない・・・

 

 

カレーうどんという存在

カレーうどんという存在。

茹でたうどんにカレーを掛けた食べ物。

あれはうどんなのか?

カレーなのか?

いやどちらでもある。

いやどちらでも無い。

うどんともカレーとも異なる新しい食べ物である。

あの食べものは偶然の産物である。

ある日曜日、独身サラリーマン昼頃起きだし、何か食い物はないか探した。

昨日の残りのカレーが鍋に残っている。

しかし、飯がない。

わざわざ炊くのも面倒、第一この1年くらい炊飯ジャーを使っていない。

冷蔵庫を開けてみると、うどんの麺が一玉あるのみ。

そこで閃いたのだ。それが結構美味かった。

それ以来スーパーでうどん玉を買って常時冷蔵庫にそしてカレーを食った次の昼食や夕食にうどんにカレーをかけて食べるようになった。

そして行きつけの蕎麦屋のおやじに話した。

よし、それならうちの蕎麦にカレーをかけて食ってみよう。

しかし微妙な味。

サラリーマンは「やっぱりうどんかなぁ」

蕎麦屋にあったうどん麺を茹でて食ってみた。

おうコレは美味い。

おやじは調子に乗って、蕎麦の出し汁を加えたのだ。

するとさらに美味くなった。

商品化決定。

この蕎麦屋は京都にある有名な蕎麦屋、一力(いちりき)である。

・・・というのは全くの作り話・・・であるがこんなものではないのだろうか。