私的な散文

私的な散文を徒然に綴っていきます

老いと成長

夜中目を覚ますとカーテンを引いているので見えるはずはないのだが、周囲のベッドの上に鈍く光る球体が見える。
何だろうと目を凝らしてみると、透明な球体の中に、生まれたままの姿で、入院患者がいろんなチューブを繋がれ、浮かんでいる。
何だか子宮の中に浮かぶ胎児のようだ。

私は手術を前にして今絶食中である。
安全に施術する為らしい。
生きるための栄養は点滴で採っている。
胎児は受精卵から細胞分裂して、魚の姿から人の姿になり、この世に生を受けるまでの間、その生命を母親に委ねている。
成長に必要なすべてを母胎と結ばれた臍の緒で供給されるのだ。
私そしてこの病室の患者は胎児に準える事が出来る。
実際私以外は胎児のようにカプセルの中で眠っている。
このような状態は永久に可能なのか?
永久にではなく、老衰し死を迎えるまで・・・可能である。
いくつものチューブに繋がれたいわゆる植物人間といわれる生命、意識を持たない生命が存在する。
私が受けている点滴では無理らしい。
生存に必要な栄養とカロリーが足りない。
次の段階の生理食塩水+αは一段と高栄養高カロリーになって首などの太い血管に繋ぐ。
更に長期間になると胃に直接流し込むらしい。
生きるための必要物の供給が片付けば、排泄の処理は容易だし、必要であれば人工呼吸もある。
生命を維持する装置は揃っているわけだ。
母胎という生命維持装置に繋がれた胎児を待っているのは誕生という輝かしい瞬間。
人工的生命維持装置で生きながらえている命を待っているのは死という残酷だが荘厳な瞬間。
・・・と考えていくと、老いというのは成長の一形態なのか?
確かに人間は成長し続ける、知の領域では。
経験し、学習し、知識を蓄え、総合力が発達する。
偉大な哲学者、音楽家、科学者、政治家、まれな例外はあるが、その活動の頂点は壮老年期である。
しかし、体力的には衰えていく。
一説によると、生命活動のピークは25歳で、その後は老化が始まるらしい。
昔の平均寿命が50歳前後という事を考えると25歳が折り返し点だ。
現在では、成長期の2倍の時間老いていかなくてはならないのか。
人間の細胞は常に新陳代謝し、細胞がどんどん入れ替わる。
長いものでも数ヶ月で新しい細胞に入れ替わるらしい。

では、なぜ老いていくのか?
古い細胞がどんどん再生するのなら、、老いは無いのではないか。
それとも、25歳を過ぎると少し劣化した細胞に入れ替わる、劣化再生とでもいう現象が起きているのか?
一番考えられるのは、テンプレートとしてのDNAが外的刺激を受け、再生の設計図が本来のものから書き換えられ、異なる細胞が再生されることである。
外的刺激とは宇宙線放射線、紫外線、電磁波、空中に漂う微粒子、汚染物質、農薬、食品添加物、薬物・・・数えるときりが無い。
地球上ではDNAへの刺激で満ち満ちている。
年を経るほどに損傷が大きくなっていく。
紫外線の影響は特に顕著に見る事が出来る。
しかし、昔の田園社会に比べ、現代は人工的な刺激が増えているはずだが、その影響が見られない。いや殺人医療の影響は顕著なのだが・・・
本当は昔の人の方が健康だったのだが、環境の不衛生、医療技術の未発達で寿命が短かっただけかもしれない。
またこうかも知れない。
全身の細胞は再生するが、脳の細胞は新陳代謝によって再生されず、1日数十万個の細胞が失われていくという。
全身の細胞のテンプレートはDNAに書き込まれている。
その設計図に基づき、再生が行われる。
と共に、脳からのコントロールも必要では無いのだろうか。
脳の細胞がどんどん失われ、細胞が古くなっていくと、脳の全機能が働かず、細胞へのコントロールも100%とはいかなくなる。
それで、DNAの設計図通りには再生されなくなる。
その結果、劣化再生されるのだ。
脳細胞が死滅劣化していくので、知力も衰えていく。
体力、免疫力が衰えていくので、いろんな疾病にも罹患しやすくなる。
あるいは、DNAに“老い”が予め仕込まれているのだろうか?
時間という軸が設計図に記されているのか。
死に至る“老い”という過程が。
そうとすれば、どうしようもない話だが。

周囲のカプセルに眠る患者達は、名画“2001年宇宙への旅”で描かれた、安らかに眠る胎児のようである。
ベッドの上の透明カプセルを満たす生理食塩水に浮かび、安堵の色を浮かべた、生まれた姿のままの老壮年の患者たち。
インキュベーターの中でプチ再生を待つ、愛しき神の子たち御仏の前身達・・・輝ける命たち・・・覚醒の時を待て・・・

オンアボキャベイロシャノウマカボラダマニハンドマジンバラハラバリタヤウン

 

 

男の美容

最近の若い奴等は、眉毛を剃って整えたり、ムダ毛を剃ったりするらしい。
気持ち悪い。
頭髪もワックスか何か知らないが、塗ってケバケバに立てている。
気持ち悪い。
シャツをズボンの中に入れるのは格好悪いとズボンの外に出している。
気持ち悪い。
ズボンを腰に引っかけて履く、いわゆる腰パン、足が短く見えて、
気持ち悪い。

腰パン
だいたい足が短いのは格好悪い・・・と上げ底靴などもあるのに何故か?
逆に意図的にズボンを下げ、足を短く見せて、ホントは長いんだぞと暗示しているのか?
わからない。
だらしない。
腰パンの男の子が前かがみになるとパンツが見える。
格好悪い。
ズボンの裾が擦れて、それが格好いいらしい。
わからない。
若い奴らはなにを考えているのか?

今はどうか知らないが、男の子がでかいスニーカーの紐もユルユルにしてだらしなく履いている。
わからない。
ジーパンをわざと破いてヨレヨレにして履いている。
格好悪い。
そこまでやる?と思ったのが・・・
今では普通になったが、
・・・ピアス・・・
どうして親からもらった自らの肉体に傷を入れてまでお洒落したいのか?

大抵の若い子が耳にピアスをしている。
電車に乗った時など、耳たぶに突き刺さった針金が耳たぶの裏に頭を出している。
気持ち悪い。
中には鼻や唇にしている。
何のため?
鼻に沢山のワッカのピアスをしている若者が電車に乗っていた。
しきりに周りの目を気にしている。
珍しいものを見るような目で見るんじゃないというように。

だったら、珍しい人目を引くような格好をするんじゃない!
わからない。
そして、タトゥーと格好よく呼んでいるが、入れ墨・・・
流行っているらしい。
やるなら、ヤクザのように徹底的にやれ!
臆病者が!
肝っ玉が座ってないなら、タトゥーシールでも貼ってろ。
わからん。
しょっちゅう鏡の前で髪型をチェックしている。

言葉もおかしい。
・・・ってか、○○だし!
いい加減にしろ。
・・・みたいな。○○○みたいな。
みたいな・みたいな・みたいな。
僕怒っちゃうゾ!ぷんぷん!
アッ!シカトしちゃって。
オジサンもう付いてけない。
ダッセー!キモイ!
何が?
ざけんじゃねえ!
・・・いろいろあるが思い出せない。
とりあえず乱れてる。

 

煮えきらない患者

もう面会の終了時間、午後7時である。
斜め前のベッドのTに面会中の家族、妻と娘2人が帰ろうとしている。
5時位から来ているだろうか。
明日退院らしく、その段取りの打ち合わせをしていて長引いているようだ。
Tは抗ガン剤の副作用で頭髪が抜け、いつも毛糸の帽子を被っている。
長女(高校3年らしい)がその頭を見て「お父さん、あんた1ヶ月でこんな頭になって!」・・・とうとう泣き出してしまった。
Tは腰が痛くて、曲げられないらしい。
鎮痛剤が強いらしく、車の運転をするなら出せないと看護師に念を押されていた。
その関係でどう家に帰るか話し合っているようだ。
あまり、注意を向けて無く、途中の経過は分からないが、7時近くなり、妻がさあ帰ろうかと言い出した。
「ちょっと待て」とT.
その時ベッドの上で携帯ゲームをしているようだ。娘2人が見守っている。
妻がまた促す。
長女が「お父さんが待ってって言ってるじゃない」と父親を庇う。
その時、「ちょっと待てと言ってるだろうが!この馬鹿女が!」大きな怒声が皆を驚かした。
その時から、口が動いてないのに、声が聞こえ出した。
「この馬鹿女、何にも考えてないのか。どうすりゃいいんだ?入院費はいくらだろう?はらえるかな?高額だったらどうしよう?・・・どうしよう・・・どうしよう・・・困ったぞ・・・」
ゲームをしながら思っているらしい。
それがはっきり聞こえる。
「なによ、こんなに心配しているのに。もう早く死んじゃえばいいんだ。そうしたら全てがかたずくのに・・・」
妻の頭の中の声も聞こえる。
娘たちの思いは分からない。
どうも心に葛藤のある人の声が聞こえるようだ。
そして、心中の混沌とした想念は聞こえない。
心中にはっきりと意識した無音の声だけが聞こえるのだ。例えば今私がここに記している単語の連なりが頭の中で響いているように。
家族が帰っていった。
Tはまだ携帯ゲームに夢中になっている。
しかし、聞こえてくるのはため息ばかり。
時々「どうしよう」という声が入る。

その晩は何もなく過ぎた。
翌日、午後1時頃、Tの長女が駆け込んできた。
「ごめーん!間違ってたぁ?」
「書類が違うじゃないか!おまえ馬鹿か」
高額入院費の社会保険からの払い戻しの書類の事らしい。
「そんなに怒らんでもいいじゃん!そんなに言わないでよぉ。私だって一生懸命なのよー」声が震える。
一時やりとりがあって娘が帰っていった。
私はウトウトしていて、一緒に帰ったのかな・・・と思ったら、帰り支度をしてベッドに寝ている。
すると起きあがって、今まで会話を交わしたことのない、隣同士で話をしている同室の2人の患者に話しかけている。
話していることは些細な事柄だが、結構親しそうに長い間話している。
そして「早く退院できるように」と別れの挨拶をしてまた沈黙が続く。
私はこのTが、大分前私と友人を裏切った卑劣なHに背格好、身振り、話し方がそっくりで好きになれなかった。
人間ある程度生きていると、憎む人が増えて嫌なもんだ。
好きな人はそれ程増えないが・・・
私は背を向けて目を瞑っていた。
もう帰ったかと思うとまたベッドに寝ている。
「どうするどうする・・・こんなに高いなんて・・・72万なんて払える訳無いだろー」
ブツブツ言う無音の声が聞こえる。
いったいどれ位入院しているのだろう?
立ち上がり部屋の中をうろうろしだした。
「どうするどうする・・・困った・・・マジに困った・・・」ウロウロウロウロ・・・
うるさい奴だな・・・と思ったが・・・考えると人事ではない。
Tの心情を思うとついつい感情移入してしまう。
早く去ってくれ・・・と思う。
暫くして、隣のベッドの患者に「じゃあ行きます」と声をかけ去っていった。
同情するが、あのHみたいにウジウジした奴だった。
しかし・・・後味が良くない。

病院幻想交響曲 空間はエーテルで満たされている

いつものように消灯時間を過ぎ、気のボールを作る訓練を始めた。
かなり、上達したようだ。
その時ふと目を上げると、部屋中キラキラ星で満たされている。
その美しさに見入っていると星々は隣同士、立体的に直線で結ばれている。
と言うのは星々の間に細かな光が走るので分かる。
星々の間隔は数十cmというところだろうか。
昔から、光を伝搬させるために虚空を満たす物があるとされ、それは“エーテル”と呼ばれている。
現代物理学ではその存在は否定されている。
それが見えるのか?
とんでも無いことになったな!
物理学の歴史を覆すことになるぞ!
これは原始、素粒子などとは次元が異なる存在なのだろう。
実際は波動としての存在だろうから、点と線には見えないのだろうが、存在を知らしめるかのように霧の中で輝く点と線に見える。
何と説明して良いのか分からないが、物質を含め、虚空を満たしており、遠くに行くほど光が弱くなるようだ。
だから、星空の眺めとは異なりすごく立体的に見える。
驚いたことに目を閉じても見える。
目を軽く閉じると遠くに、堅く閉じると近くにフォーカスするようだ。

これで納得できた。
入院した時から昼間でも無地の壁や天井に一杯の模様が見えていた。
線刻の模様だ。
私の推測では私の意志を反映してエーテルの各粒子に光が走り、それが模様として見えるのだろう。
全部が光っていれば網の目模様になってしまうが、有意な模様に見える。
どうも私の意志だけではなく、その面毎に意味があるようだ。
見る無地の面によって、それぞれテーマがあるようなのだ。
私のベッドの上の天井は岩綿吸音板というランダムに小さな穴があるような新建材だが、この面のテーマは“スキンシップ”だ。
通常は大きな公園の芝生の上で、何組ものペットと飼い主が寝転がっている。
飼い主の上でペットが気持ち良さそうに寝ている。
私は病んでいるがまだ若い。
従って時には性欲が若干高まるときもある。
そんな時は折り重なった裸の男女で一杯に見える。
さらに高まったときは凄くエロティックな裸体の折り重なりに見えるのだ。
この様子から私の意志あるいは感情を反映しているということが分かるのだ。
トイレのドアは子供を連れての狩猟、ベッドの正面の吊り戸棚はアメリカンコミック・・・という具合だ。

とうとう現代物理学で否定されている“エーテル”まで見えるようになってしまった。
常に腕に突き刺されている点滴用の大きな針を見て、サイボーグ化ではないが、我が身に異変が起きているような気がしていた。
最近のおかしな現象を考えると、異変が起きているとしか考えようがない。

 

 

病院幻想交響曲 幻魔対戦

今日は昼間から嫌な予感がしていた。
何だか血がざわめくような・・・
夜10時の消灯時間の前に点滴を取り換えられ、照明を消された。
やはりやって来た、魔界から・・・
遠くの雲に稲妻が走るのを見るように、ベッドに寝ていて真上に見える黒雲に稲光が光る。
Kではない。何者か?
私を密教の修行者と知っての狼藉か!

私はまず密教護身法でバリアを張る。
・浄三業の印・
オンソワハンバシュダサラバタラマソワハンバシュドカン・
・仏部三昧耶の印・
オンタタギャトドハンバヤソワカ
・蓮華部三昧耶の印・
オンハンドボドハンバヤソワカ
・金剛部三昧耶の印・
オンバゾロドハンバヤソワカ
・被甲の印・オンバザラギニハラチハタヤソワカ
・・・私の周囲を透明のバリアが取り巻く。

突然、外壁を貫通して魔物が降りてくる、千手観音の姿を借りて・・・
その数え切れない手には、剣が握られている。
千の剣を振りかざし、襲ってきた。

入院して真夜中の修行により、護身法が武器としても使えることを知った。
5つの印が各々武器として使用できるのである。

まず最も強力な“被甲”でエネルギービームを千手観音に食らわす。
まるでレーザー銃だ。
両手の人差し指でビームの径を調整出来る。
まず、頭頂のチャクラから虚空に満ちるエネルギーを両手に送る。
すると、結印が溶岩の様に不気味に輝き出す。
シュルシュルと低い音から高音へ。
キーンと言い出すとエネルギーフル充填。
結印は光輝く。
そして、ターゲットにビームを当て、それを絞る。
千手観音の剣を持った手が、次々に薙ぎ払われていく。

かなりの被爆音だが、他の患者は気が付かない。
私は遠慮して、スモールアクションで戦う。
赤く輝く点が無数に現れるが、それも一つ一つ落としていく。

赤黒い大きな蜘蛛が現れる。
この蜘蛛はなかなかしぶとい。
“仏部三昧耶”を使う。これは、頭頂のチャクラだけでなく、武器である両手の結印から直接、エネルギーを得られる。
従って強力なエネルギーを放射できるが、放射速度が遅い。
近距離対戦に向いている。

“仏部三昧耶”で蜘蛛を木っ端微塵にする。
主にこの二つの印で戦っている。
敵の攻撃は執拗だが、破壊力は弱い。
護身法によるバリアーが機能しているようだ。
カーテンに黄緑のスライムが張り付き、下にボタボタ垂れている。
これを攻撃するが、ダミーの魔物である。
プレデターが身を隠す時のような屈折率の違う空気、象の歪みに身を借りてしつこく魔物が現れる。
“被甲”で蹴散してやった。

と、姿を消した千手観音がその衣を脱ぎ、妖豊な女体となって現れ、誘惑に掛かる。
シターラの音色でヒンドゥーの妖しい楽の音が響きわたる。
それに併せて女体がくねり、妖しい舞で誘う。
今は性のリピドーは下がってるんだ。
生憎だったな。
哀れみの念も交えず、女体も木っ端微塵に吹き飛ばしてやった。
魔物は黒雲に吸い込まれるように去って行った。
こちらの被害はなかったが、とてつもなく体力を消耗してしまった。

何だったのか。
なんだか、私の暗い一部のような気がする。
しかし、護身法の金剛部三昧耶の印が何の武器になるのか分からない。
金剛杵を表すようだが、その形態から盾の一種か。
これだけが使えなかった。

そして今の魔物の正体は一体何だったのか・・・

対戦が終わるとちょうど看護師さんが様子を見にやってきた。
疲れたので寝た振りをしてかわす。
夢だったかと思ったが、現実だった・・・

 

 

 

病院幻想交響曲 矢継ぎ早と怒りの矢

声が甲高い人はセッカチな様な印象を受けるが、観察するとその通りだ。
甲高い声というのは、単に高い声ではなく、高周波音が混ざっている声ということだ。
例えば看護師さんでも声が甲高い人は、患者さんに対して矢継ぎ早の問いを発することが多いようだ。
「カーテン開けてていいですか?あれ、毛布は一枚?アッ尿器は下の方がいいかなぁ?」
患者さんは・・・おいおい順に返事させてくれよ・・・
彼女は順番に片ずけることはない。
「カーテンは?」「閉めて」「毛布は?」「もう一枚かけて」「尿器は?」「そのままにしておいて」・・・なにも難しいことではないのだが。

矢継ぎ早の質問はネットショッピングの際の「ご注文はこちら」に出てくる黄色い矢印である。
黄色い矢印が看護師さんの口から放たれ、患者さんに当たり砕ける。
順番なら黄色の矢印を患者さんがレシーブして、緑の矢印で跳ね返す。
それを看護師さんが受けて、ブルーのOKサインが灯る。
黄色の矢印が、それこそ矢継ぎ早だと、矢印が砕けて飛び散る。
看護師さん自体がどんな矢印を放ったか覚えていない。
自分自身で矢印を見ればその事が分かるのに。
怒りの矢は赤地に黄色の四本線、切っ先が鋭く、速度も速い矢印として見える。

私の横の新しく入った入院患者Sは大腸ガンの大手術を控えているようだ。
声が甲高い。
一ヶ月前に脳出血で入院し、それで大腸ガンが分かったらしい。
脳出血のため半身が少し麻痺している様子、言葉には支障はない。
度重なる重度疾病で不安に苛まれ、イライラしているのは分かる。
入院してきた夜は、ガサゴソガサゴソと何かやっていて、私も眠れなかった。
あくる朝、二十歳前と思われる息子Aがやってきた。
可哀想なことに少し知恵遅れのようだ。
Sはこの知恵遅れの息子にもイライラしているようだ。
早速「遅いじゃないか。こんな時間に来てどうするつもりなんだ。馬鹿者が!」
怒りの矢印が飛び息子の体に突き刺さる。
息子は「・・・んーー・・・んーーー・・・」とうなだれる。
「これをたたんで、つり戸棚の中にしまってくれ。」と下着を渡す。
息子は「・・・んーーー・・・」
と、つり戸棚に手が届かず、ベッドの上に乗った。
突然、「イタタターー!こらバカ!そんなところに乗る奴がいるかぁ!気をつけろ、このバカが!!」
息子が点滴の針の差し口を踏んだようだ。
赤い矢印がグサグサッと息子を刺す。
「ゴゴゴメンナサーーーイ」
「お前なぁ、こんなところ踏みやがって、俺はいいけど器具を壊したらどうすんだよう!細心の注意を払えよぉ!」
「ゴメンナサイ・・・んーー・・・」

看護師が来て手術の準備について説明する。
「・・・腹帯二つと前あきジッパー止めの肌着二着・・・どれも一階の売店で売っています。」
「おいA、下の売店で腹帯とジッパー止めの肌着買って来てくれ。」
「・・・んーー俺ジッパー止めとかいうの分かんねえ・・・んーーー・・・」
「お前はホント役立たずだなー、もうどうしようもないね!」
息子の身を抉る鋭い矢。
「なんかこのシャツじとじとしてんだよな。上から新しいシャツ取ってくれ。」
息子は先程ベッドに乗って叱られたことで躊躇している。
「・・・んーーーんーーー・・・」
「早くしろよ。お父さんがどうなってもいいのか。分かったぞ!お前はお父さんが風邪を引いて早く死ねばいいと思ってんだろう!お前の魂胆はよぉく分かった。もう頼まん。明日どうせ大手術でもう帰って来れないかもしれんからなぁ。お前もそうなればいいと思ってんだろう!」
エッそこまで言うか、そこまでイビるのか!
怒りの矢が、息子の体をだんだん小さくしていく。
怒りの矢は、看護師さんからも発することがある。
冷静に聞こえる口調でも怒りの矢になっていることがある。

どうして、人間は感情をコントロール出来ないのだろう。
喜怒哀楽この中でも激しい感情“怒”・・・これがコントロール出来れば、世の中の悲惨な出来事も減るであろう。
人間とはいかに脆弱な精神性を持っているのかがよく分かる。
フィジカルな科学技術はどんどん進歩、進化しているのに、メタフィジカルな精神性はいっこうに変わる様子がない。
学習機能が働かないのか?
それどころか、最近ますます精神性が後退して見えるのは何故か?
物質的豊かさと精神的豊かさは両立しないのか?

???・・・である。
とにかく人間とは不完全な生き物である。

 

 

 

病院幻想交響曲 トイレの神様

手術後結構大変だった。
一つは手術中、全身麻酔するので尿道に挿入した尿管。
手術終了後、病室に帰り、麻酔が完全に醒めて尿管を抜いてもらったが、それからまともに小便が出来ない。
たまにそういう事があるそうだ。
尿が膀胱に留まったままだと、アンモニアの影響で炎症を起こすらしい。
それでまた尿管を挿入して尿を抜く。
そうすることで尿が自然に排泄できるようになるとのことだ。
しかし、尿管の入れたり出したりがこれまた痛い。
それに若い看護師さんにしてもらうのが、これまた恥ずかしい。
立派な逸物だとまた違うかもしれないが、お粗末で申し訳ないと謝る必要もないのだが、とにかく申し訳ないのだ。
尿管を挿入すると、尿をしている自覚はないが、タラタラと400ccも出ていた。
それから何回かトイレに行ったが出ない。
絶食していたので便も出ない。
重湯の食事をとって、出たのがまた液便だ。
傷跡は背中からの麻酔薬で、痛みは無いが、とにかくきつい。

トイレとは関係ないが、手術の明くる日から手が震えだし、肩から腕、胸の辺りがピクッピクッと痙攣しだした。
時間が経つにつれ次第にひどくなる。
看護師さんや医師に告げると、何だか「こりゃまずい」というような顔をして、神経内科に聞いてみましょうか・・・等と言う。
しかし、歩行には支障がない。
私には説明がなかったのだが、手術の後、これから手術を受ける隣のベッドの患者に、麻酔医が説明しているのが聞こえた。
背中からチューブを挿入する脊髄膜麻酔を施した場合希に脊髄の神経を傷つけることがある・・・と。
何故その患者にだけ説明したのか。
その患者は最近脳梗塞も患っていた。
だからもし麻酔後神経に異常が生じた場合、どこに原因があるのか特定できない可能性が生じる。
そうすると処置が遅れ、生命の危険も有りうる。
・・・と言う事で、脊髄膜下麻酔を受けるかどうか自身で決定してもらうため、そこまで説明していた訳だ。
それをカーテン越しに聞いてしまったのだ。
私は、神経をやられた・・・と思い込んだ訳だ。
このまま震えが止まらなかったら、仕事が出来ない・・・

何だか全てが悪い方向に進んでいる・・・
暗い思いでまたトイレに行った。
そのトイレは出入り口が二つ有る。
私はいつも病室に近い方の出入り口を通っていた。
しかし、なんの拍子か、その時はいつもの出入り口から入り、普段使わない出入り口から出た。
その時、声が聞こえた。
「そうだ。両方とも通らないと駄目だ。出入り口は通るために作られている。それで良し」・・・と。
トイレの神様”の声だった。
調子が悪い原因はこれだったのか!
もう一度その出入り口を通り、トイレに入った。
そして、感慨深く手を洗い、紙タオルで手を拭き、チリ入れに捨てた。
そうすると濡れて捨てられた紙タオルの皺が神様の顔になっていた。
彫りの深いギリシャ系の顔立ちで、ニヤッと微笑んでいた。
それから、言うまでもなく、両方の出入り口を使うようにした。
そうすると全てが好転しだした。
小便はちゃんと出るようになった。
便通も良くなった。
身体のきつさも和らいでいった。
麻酔医が様子を見に来て、手の震え肩の周りの痙攣は脊髄膜下麻酔の副作用でたまに出る事がある・・・と言って帰った。
震えと痙攣は次第に収まったのは言うまでもない。
やはりトイレの神様は存在した。
彫りの深いソース顔の神様だった。
トイレに手を合わせるようになった。