私的な散文

私的な散文を徒然に綴っていきます

老いと成長

夜中目を覚ますとカーテンを引いているので見えるはずはないのだが、周囲のベッドの上に鈍く光る球体が見える。
何だろうと目を凝らしてみると、透明な球体の中に、生まれたままの姿で、入院患者がいろんなチューブを繋がれ、浮かんでいる。
何だか子宮の中に浮かぶ胎児のようだ。

私は手術を前にして今絶食中である。
安全に施術する為らしい。
生きるための栄養は点滴で採っている。
胎児は受精卵から細胞分裂して、魚の姿から人の姿になり、この世に生を受けるまでの間、その生命を母親に委ねている。
成長に必要なすべてを母胎と結ばれた臍の緒で供給されるのだ。
私そしてこの病室の患者は胎児に準える事が出来る。
実際私以外は胎児のようにカプセルの中で眠っている。
このような状態は永久に可能なのか?
永久にではなく、老衰し死を迎えるまで・・・可能である。
いくつものチューブに繋がれたいわゆる植物人間といわれる生命、意識を持たない生命が存在する。
私が受けている点滴では無理らしい。
生存に必要な栄養とカロリーが足りない。
次の段階の生理食塩水+αは一段と高栄養高カロリーになって首などの太い血管に繋ぐ。
更に長期間になると胃に直接流し込むらしい。
生きるための必要物の供給が片付けば、排泄の処理は容易だし、必要であれば人工呼吸もある。
生命を維持する装置は揃っているわけだ。
母胎という生命維持装置に繋がれた胎児を待っているのは誕生という輝かしい瞬間。
人工的生命維持装置で生きながらえている命を待っているのは死という残酷だが荘厳な瞬間。
・・・と考えていくと、老いというのは成長の一形態なのか?
確かに人間は成長し続ける、知の領域では。
経験し、学習し、知識を蓄え、総合力が発達する。
偉大な哲学者、音楽家、科学者、政治家、まれな例外はあるが、その活動の頂点は壮老年期である。
しかし、体力的には衰えていく。
一説によると、生命活動のピークは25歳で、その後は老化が始まるらしい。
昔の平均寿命が50歳前後という事を考えると25歳が折り返し点だ。
現在では、成長期の2倍の時間老いていかなくてはならないのか。
人間の細胞は常に新陳代謝し、細胞がどんどん入れ替わる。
長いものでも数ヶ月で新しい細胞に入れ替わるらしい。

では、なぜ老いていくのか?
古い細胞がどんどん再生するのなら、、老いは無いのではないか。
それとも、25歳を過ぎると少し劣化した細胞に入れ替わる、劣化再生とでもいう現象が起きているのか?
一番考えられるのは、テンプレートとしてのDNAが外的刺激を受け、再生の設計図が本来のものから書き換えられ、異なる細胞が再生されることである。
外的刺激とは宇宙線放射線、紫外線、電磁波、空中に漂う微粒子、汚染物質、農薬、食品添加物、薬物・・・数えるときりが無い。
地球上ではDNAへの刺激で満ち満ちている。
年を経るほどに損傷が大きくなっていく。
紫外線の影響は特に顕著に見る事が出来る。
しかし、昔の田園社会に比べ、現代は人工的な刺激が増えているはずだが、その影響が見られない。いや殺人医療の影響は顕著なのだが・・・
本当は昔の人の方が健康だったのだが、環境の不衛生、医療技術の未発達で寿命が短かっただけかもしれない。
またこうかも知れない。
全身の細胞は再生するが、脳の細胞は新陳代謝によって再生されず、1日数十万個の細胞が失われていくという。
全身の細胞のテンプレートはDNAに書き込まれている。
その設計図に基づき、再生が行われる。
と共に、脳からのコントロールも必要では無いのだろうか。
脳の細胞がどんどん失われ、細胞が古くなっていくと、脳の全機能が働かず、細胞へのコントロールも100%とはいかなくなる。
それで、DNAの設計図通りには再生されなくなる。
その結果、劣化再生されるのだ。
脳細胞が死滅劣化していくので、知力も衰えていく。
体力、免疫力が衰えていくので、いろんな疾病にも罹患しやすくなる。
あるいは、DNAに“老い”が予め仕込まれているのだろうか?
時間という軸が設計図に記されているのか。
死に至る“老い”という過程が。
そうとすれば、どうしようもない話だが。

周囲のカプセルに眠る患者達は、名画“2001年宇宙への旅”で描かれた、安らかに眠る胎児のようである。
ベッドの上の透明カプセルを満たす生理食塩水に浮かび、安堵の色を浮かべた、生まれた姿のままの老壮年の患者たち。
インキュベーターの中でプチ再生を待つ、愛しき神の子たち御仏の前身達・・・輝ける命たち・・・覚醒の時を待て・・・

オンアボキャベイロシャノウマカボラダマニハンドマジンバラハラバリタヤウン